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nailの歴史

古代より、色は何らかの意味をもつとされてきたのはご存知でしょうか。古代エジプトではグリーンは復活の色、黄色は太陽の色として崇拝されてきました。

日本ではどうでしょうか。

古代より赤に強い執着心があったと言われています。

飛鳥・奈良時代(6世紀~8世紀)は、紅殻という、酸化鉄を用いた呪術的な意味合いの化粧が施されていました。額の中央や唇の両端に部分的に、さらにその延長で指先を染めていたと言われています。

平安時代(9世紀~)になると、遊女が宮廷の婦女のような装いをしたため、化粧が下層階級にまで知れ渡るようになっていきました。鳳仙花とホオズキの葉をもみあわせて色を作り、爪先に塗るという、爪紅(つまくれない)がされていました。

江戸時代(17世紀~)紅花を使った中国から伝わった染色技術により、化粧にもそれは利用されるようになりました。爪を染めることを爪紅(つまべに)、唇を染めることを(くちべに)と言います。

近代になって、フランスからマニキュア術が伝わり、磨爪術として発達します。

1970年代後半になり、アメリカからnailの技術と商品が入ってきます。

1980年代初頭、nailの技術を職業とするマニキュアリスト、ネイルサロンが出現します。

しかし、世界ではもっと前からnailに関しての記述があります。

古代エジプト、紀元前3000年前にはすでに、爪をに色を施すということが行われていました。紀元前3000年とは、日本で言う縄文時代にあたります。

これはつまり、古代ギリシャ・ローマ文明(紀元前6世紀~)のもととなる古代エーゲ海文明と同じころ、ということになります。現代の西洋美術の元となる古代ギリシャ・ローマよりはるか昔ということになります。

nailだけではなく、スキンケアやヘアカラーなどもありました。

ギリシャ・ローマ時代(紀元前6世紀~)になると、上流階級の中で手のお手入れである「マヌスキュア」が流行しました。

中世ルネッサンス期(1300年頃~)になると、舞台芸術が花開き、化粧の文化を高めていきます。オペラの起源となるバレエが生まれ、指先の演出も重要とされていきます。

19世紀以降、一般にもマニキュアは浸透し、透けるような薄いピンクが好まれ磨かれるようになりました。職業としてのネイリストが生まれたのはこの時期ですが、一般庶民には非常に高価で手が出せないものでした。

1932年、自動車の塗料の副産物としてマニキュアが発明されます。

1970年代、ハリウッドの特殊メイクチームにより歯科材料であるレジンを使ったスカルプチュアが発明され、ネイルサロンブームとなります。

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nailを考える

nail、始まりは、中学生の頃、興味本位でマニキュアを塗ってみたこと。大人っぽさを演出したくて暗めのグレーを塗って、登校してみた。そしたら、すぐ親友に「さっちゃん、学校で禁止されてるんだからダメだよ。」と、真っ当な忠告をいただいた。「そうだよね。」という感情と、「これくらい親友なんだからわかってくれてもいいじゃん。」という感情で葛藤した記憶が鮮明にあるのとともに、「なんでこんな汚い色でこんな気持ちになるんだ!」と、その色に対してのある種憤慨みたいなものを覚えたことが、私のnailとの初対面。

あの時から、色は大きな効果があるのだな、という仮定は私に付きまとった。色が感情に作用するという仮定。似合う・似合わない、快・不快という仮定。nailは良くも悪くも、私に体験を与えてくれた。

今、ここではnailと言うと、私はnailサロンでnailをすること、その成果物を指すこととする。世の中自分でセルフマニキュア、セルフジェルネイル、などあるけれど、それは今はここでは対象外として扱わない。

nailの一連の流れはこうである。

  • 爪の形や長さ、色やデザインなどを伺う。
  • その日の気分や最近のムードを伺う。
  • 1か月間の予定を伺い、最終的に大枠のデザインを決める。
  • 細部のデザインの調整をする。
  • 仕上げ。

お客様からするとこうだろう。

  • サロンを予約する。
  • デザインを考えながら足を運ぶ。
  • 長さや形を伝える。
  • 色やデザインをネイリストと相談しながら決める。
  • 最近あったことなどの雑談。
  • 細部のデザインの相談。
  • 出来上がり。

ここで気づくのは、お客様は予約して、足を運ぶという時間的・空間的動作を行っている点である。帰ることも含めると、一連の動作がループするような感覚である。

また、お客様は「受け手」として来客する。ネイルサロンとネイリストのパフォーマンスを期待しながら、「デザイン」と「空間」そして「時間」を共有する。

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デザインするとは

nailを構成する要素は色、形、そしてデザインである。

しかしこれら全体で、デザインをするとも言える。

nailのデザインの中のデザイン。

それは模様や表現様式のことと捉えるのが一般的だろう。

nailをデザインするとは、nailが何かその本質を考えることが大前提である。nailとは何か。美を追求する行為であり、気持ちを快にする行為である。楽しむとか、可愛いとか、そういった視覚からくる快もあれば、爪を保護するといった物理的な快もある。

爪の保護はもう技術一辺倒である。そこに何のデザインの介入もない。

ここで言うデザインとは、この美への追究、物理的以外の快を目的とするものである。nailのデザインとは美への追究、物理的以外の快の追究。

ここに新たに時間のデザインが加わる。

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時間のデザイン

時間の多元性を意識する。

確かに時間は単一的に流れるのではないのに、歴史書のように、ある一つの視点から、それだけを抽出してその他を排除してみてしまう。けれどそうではない。私は今パソコンに向かってこれを書きながら、外の工事の音を聞きながら、風を感じながら、窓を開けて、時間のデザインについて考えているのである。でも、単一的にみるのなら、家にいる時間、とか、時間のデザインを考察している時間、ということになるのである。そうじゃない。時間のデザインはその多元性に着目することから始まる。

プログラムとストーリー。

トライアスロンを例に、各種目がプログラムされているのと同時に、選手たちの各ストーリーがある。タイムを競うことが主軸であると同時に、そこに参加するまでのストーリーがあるのである。

始まりと終わりを意識する

始まりと終わりがあること、始まらないし終わらないこと。障害がある人たちがデザインした洋服についてのドキュメンタリーにおいて、彼らはそれを始まりとも終わってないし終わりもなく作っている、そのデザインの重厚さ、ものの価値の重厚さは一瞬で目を奪われる、タイムレスでプライスレス的存在としてそこにある。また、一瞬をとらえると思われる写真の中に、一枚の始まりから終わりの映画のフィルムを収めることで、それは時間の概念とカメラで一瞬をとらえるという機能を覆すような作用を感じる。

伝説を作る

フランスで毎年いつどこから出現するかわからないイベントが継続されることによって、それは伝説となり永遠を感じざるを得ない感覚になっていく。ある年のあるイベントだったものが時間的な枠組みを超える。語り継がれることで永続化する。

エコイベント

参加、体験することでその未来にもアプローチする。主体的参画を生むプログラムデザイン。

プロジェクションマッピング

歴史と最新テクノロジーの融合によりデザインした時間が生み出したもの。

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中世ロマネスクとゴシックの彫刻

今日は、中世ヨーロッパのロマネスク時代、それに続くゴシック時代の彫刻の比較をしたいと思います。

まず、中世ロマネスク時代とは、1000~1200年頃に、フランス、北イタリア、北スペイン、イギリス、ドイツ、ライン川流域に流行した美術様式です。

この頃、キリスト教の巡礼がさかんに展開され、各地域は人々の交流とともに栄え、大聖堂がたくさん建てられるようになりました。大聖堂は、知識・技術・芸術の集大成として壮大となり、彫刻はその装飾的役割を担いました。故に、入り口正面を飾ったりするなどの浮彫彫刻がつくられ、「枠組みの法則」という、建築物の枠ないで、デフォルメされた形のものができあがりました。また、「空間恐怖」も特徴的で、対象を装飾で埋め尽くしていたことが挙げられます。当時の人々は彫刻には魔力が宿るとされ、その肉体的表現よりも、精神的表現に重きをおいていたことが伺われます。

ゴシック時代になると、「12世紀のルネサンス」と呼ばれる文芸復興を背景に、彫刻にも変化が見られます。ギリシアの古代彫刻にみられる《濡れた襞衣》のようなドレ―パリー表現、自然主義的表現がされるようになり、彫刻自体も次第に枠から自立して立っているようになります。この頃、スコラ学がさかんになり、信仰の探究は芸術にも反映します。旧約聖書を、新約聖書の予型型「タイポロジー」であるとして、彫刻を含めた芸術たちはそのキリスト教教義を人々へ教えるための役目も担います。そのため、モチーフはキリストの教え、聖母マリアなどになっていきます。

そしてやがて時代が進むにつれ、彫刻は建築とは独立したものとなっていくのです。

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アラベスク

何が正しいのかな、と思うことがあります。

コーランを読むと、正しいことが書いてある。

ということで、イスラーム文化の芸術を参考にしてみました。

偶像崇拝は私もなんだか納得できないし、好きではありませんので、そこはなんだかイスラームの教えに賛成できます!

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Thunder

つい最近雷がたくさん鳴っていた日がありましたね。

Stay homeで家からずっと眺めていたのですが、こういうのを崇高というのかな、と、恐怖と一緒に何かnailに表現したい気持ちになりました。

古代から美しさというものを人は議論しており、美学という学問はバウムガルデンが1735年に最初にたてた学問なのですが、感性で捉えるものであることをベースに展開して論じておりました。その後、1757年、エドマンド・バークが、『崇高と美の観念の起源』を著して、美と崇高は正反対であることを論じています。当時の美とは、優雅とも言うべき感性であり、確かに雷のような一種の恐怖を与えるものは優雅とは違った感じ方になりますね。

崇高はとげとげして角がある、そびえたつ崖のような、視界の範囲では大きく捉えきれないものであるとバークは言っています。

そういう意味では、雷はまさにそれに当てはまり、

崇高を見ながら美を作る、という一見矛盾した試みではありますが、その点、ネイルは視界の範囲からは全くはみ出ることなく収まりますので、私は是と思います。

美しさという哲学、どんなものが美しいのか、美しいものには何か共通点があるのか、そもそも美しいとは何なのか、人それぞれのようで、「趣味がよい、趣味が悪い」という言葉は何か普遍性を持っていなければ成り立ちようがない、など、考えさせられますよね。

最後の、趣味の良し悪しは、そのものについてどれだけ知っているのかその知識によって測ることです。一種の教養と言えますので、その目は磨くことが可能ということです。

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休業の延長

S-me NAILは、5月7日(木)より営業再開を予定しておりましたが、都の要請を受け、引き続き5月7日(木)~5月31日(日)休業を延長することをお知らせ致します。

消毒、飛沫防止、手洗いなど徹底しておりますが、楽しみにされていたお客様には本当に申し訳ございません。

どうかご理解の程、よろしくお願い致します。

6月1日(月)より再開となりますので、ご予約をお待ちしております。

一日も早くこの事態が落ち着きますことを願って、できる限り自粛生活を続けたいと思います。

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ビニールカーテン

注文していたビニールのカーテンが届きました!

わーい!

お店さんは、5月13日発着と言っていたけど、頑張ってくれたんだな、ありがとうございます。

これで、お客様と私の間には透明カーテンができるわけで、

安心してnailの空間で過ごすことができるかな、と。

少しでも不安は取り除きたいですよね、きっと。

もう、このカーテンは1年か2年は活躍してくれるでしょう!と思っております。

ん?パーテンションもよさそう。http://signkingdom.jp/products/detail.php?product_id=6393

かーテンとどっちが良かったのだろうか・・。

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デカルトの方法序説

何を信じたらいいのか考えたことはあるでしょうか。

神とかそういうのじゃなくても、正義って何かな、とか、愛って何かな、とか。

私は2年前に亡くなった愛犬の看護をしてた時、この犬は私にとってどんな存在で、私の人生にどんな意義があったのか、そして亡くなった後、つまり彼の身体がなくなった後、私と彼はどういう関係になるのか、など考えていました。

しっかり納得がいけば怖くないはず。

ああ、こういうことで亡くなっても私は大丈夫、と思える根拠が知りたい。

というところから、今目に見える身体、物質と、言葉を話せない犬、その心、その見えない心は一体どこにあるのか、目に見えるものだけではないのかもしれない、てつ(本質)はどこにあるのか。

なんて考えていたのですが。

デカルト(1596-1690年)の生きた時代は、まさに、何を信じたらいいのかわからない時代になっていました。

王権神授説によって、今までずっと、神が与えた権威をかざして王が人々を支配する王権君主制が主だったヨーロッパ。でも、その神の存在は、ガリレヲ(1564-1642年)やコペルニクスらによって科学の発展がさかんになされたことや、宗教改革(16世紀)により腐敗した協会のシステムの糾弾によって、神の権威が脅かされている時でした。

神って本当にいるの?

って思った人もきっと多かったのでは。

でなければ、誰を信じたらいいんだろう?

って、なる。うん、なります。宗教改革ではプロテスタントとカトリックに分かれてしまって、えええ、ってなりますよね。私ならどっちが本物?って思う。

そこで、デカルトは考えました。

私たちは、人間である。その、人間を人間たらしめるものは理性だよ、と。

その理性を使って、真理を見つけることができるのだよ、と。

当時、こういった出版は学者たちが使うラテン語でされることが主だったにも関わらず、彼は貴族たちが使うフランス語で書いたのは、もちろん、旧体制派の人たちからの批判を免れたかったのもありますが、誰に向けたのかがポイントです。貴族階級、つまり、人々にこれを語り掛けたかったのです。

私たちは、理性を使って真理を追究することができるよ、と。

デカルトはとても優秀な学生で、ありとあらゆる勉強をして、ありとあらゆる学問を身に着けたにも関わらず、真理には学問では到達できない、と悟り、旅に出るのです。なんだかお釈迦様みたいです。

そこで、真理と見出すには、まず、すべて疑ってかかれ、少しでも疑わしきものは真理ではない、として、真理に到達するためのルールを発見します。

仏教でいうとなんだろ、こうしたら悟りにいけるよ~、みたいなルールでしょうかね。

そのルールとは、

1.国の習慣やルールに沿うこと。

2.途中であきらめないこと。

3.現実を受け止めること。

この3つです。

彼の有名な言葉に、

「我、思う故に我あり」

これは、紀元前のインド仏教と似てるところがあるように感じます。

私と外の世界は一緒だよ、梵我一如。(私とは認識する私である)

話はそれましたが、これを彼は第一の真理とします。

例えば、あ!これが真理だと発見した!としても、それは彼の夢かもしれないから、目覚めたら夢の話かもしれない、不確かである、故に真理ではない、ということからの消去法で、最後に残ったのが、疑っても、疑っても、消えない疑ってる私がいる、これは真理だ、というのです。

ここで、話は神の証明になります。

完璧ではない私がいる、ということは、どこかに完璧がなければ成り立たない。

神は完璧な存在。

故に、神はいる、と。

相対性理論ということでしょうか。

物事の対局には別の何かがある、両方合わせて存在するんだよ、という、二次元論的な考えです。

日本でも神頼みしますよね。

ということは、自分の中に神(完璧な何か)がいるのではなくて、やはり、どこか外にいる、と信じてるということですよね。

でも、私は梵我一如を支持しています。

私もてつもすべて一つだよ、という具合に。

どういうことかと言うと、

赤い、とか、痛い、とか、そこに花瓶がある、とか、全部それは私の認識によって成り立っています。

目の前の光景すべては私の認識によるものです。

なので、それらは、私の認識なしには成り立たない、ということになります、少なくとも私にとって。

そして、私とは、認識する私。

つまり、ここで=で結ばれるのです。

あ、なんだか話がそれちゃった。

とにかく、デカルトは神の証明をしたのですが、その方法は、私(日本人)には馴染みのない感じで面白かった、という話でした。