ふと、生活していて「それは合ってるのかな?」と思うことはありませんか。
ニュースとかで不倫をした人が関係ない人に叩かれていたり。
殺人の罪を犯した人が裁判で裁かれなかったり。
最近多いのは、コロナで外出していたり何か人と違ったこと、例えばホリエモンのロケット発射が叩かれたり自粛になったり。
こういうのは、法律に沿って定められているよね。ホリエモンだって、町長によって要請されたわけだから、公的な力に沿ってなされたことだよね。
ここで思うのは、法だったり政府、公的な力は本当に必要で正しいのだろうか、ということ。自由でよくない?って。いやいや。
まず、私たちは、法や政府をもたないとても自由で自然な状態でいると(ルソーの言う「自然状態」)、力の弱いものは略奪されたり侵略されたり、権利を脅かされてしまう。あったな~、学生の時に弱い立場で、ものを言えない人が、権力ある感じの子にいじめられたり。会社でもそうだよね。どこにでも大きな力、権力はあって、それによって弱者はさらに弱くなってしまう。
ここで、これに打ち勝つために、個人で戦うのではなくて結束して立ち向かうことが必要となるよね(もうこれ以上に手段がない時ね)。この結束の合意を「社会契約」と言うよ。つまり、各個人が結束して団体、社会を作りましょう、その社会にみんながみんなすべての権利を譲り渡すから、それを再分配した時に今までと同じ権利を有することができるよ、ということ。この社会においては、誰かが誰かをいじめたり侵略したりしようとしたら、それはそのいじめっ子は社会全体を敵に回すということを意味する。この社会でのルールを法と言って、その執行役を政府と言うよ。
だから、法も政府も必要というわけ。
じゃあ、法の性格と言うと。それは私たち社会の構成員全員の共通の利益を求めることで一致している。個人個人の欲望はあるけれど、その総和ではなくて、Aさんの欲望、Bさんの欲望、Cさんの欲望、その相殺によって本当の共通の利益を見出されるということ、これを「一般意志」というよ。
この一般意志にのっとって、立法があり、政府は動くんだけど、一般意志は間違えないのか、というと、間違えないけど欺かれるよ、とルソーは言ってる。どういうことかと言うと、この社会の中にDだ!という意見とEだ!という意見があったとして、それが個人で唱えてる時はいいんだけど、団体を組んでDだ!とか言うとそのDの力が大きくなってしまうのね。だから、できるだけ団体は組まない方が声は平等になるから、個々で唱えなければいけない。あとは、政府の動きはもともと一般意志である法に則さなければいけないけれど、政府の性格上自己保存の意志もあるのね。自分たちが解体されては役割を担えなくなってしまう。そもそも政府には執行役という大きな権利を与えているので、その権利を守りたい欲求が生まれるのは自然なこと。なので市民は、市民の総意という言葉に惑わされずに、なにが一般意志なのかはっきりさせ続けなければいけないのね。監視するとも言える。
じゃあ、そんな政府には3つのタイプがあって、君主制、貴族制、民主制があるよ。
君主制は一人の王様によってなんでも決められちゃう。法律も政治も王様の意のままね。ルソーはこれには否定的。唯一、大きくて市民すべてが力を持っていたらそれもOKって言ってる。例えば、フランスの王様が君主制を取っているとして、市民がみんな裕福で力をもって発言権があればそれは問題ないってことみたい。貧民がいたら、そこに平等は施される可能性は低そうね、自分たちの権利を守りたいからね。自分の権利を守りたいのはみんなそうだよね。
では、民主制がいいのか。今は民主制がいいっていう感じになってるよね。民主主義。市民みんなに権利があって、市民の多数決によっていろいろ動かしましょうって。ルソーは民主主義の親だと言われているけれど、意外にも彼はこれもベストとは言っていない。ベターだけど。なぜなら、市民みんなが賢くて正しい判断をできればいいけれど、半分以上が賢くなくて正しい判断をできなかったら?それは社会を間違った方向へ導いてしまう。つまり、5割以上の確率で正しい判断ができるということが条件ということね。みんなその自信はあるのだろうか。憲法改正に賛成なのか。コロナをどう対処していくのか。5割以上の打率を求められる。
ルソーが言うのは、貴族制、しかも選挙制。もちろん、国によってどんな政府が良いかは言い切れないけれど、それは国民性や土地の生産性などもあるからなんだけど、でも、ルソーは選挙制の貴族制がいいと言ってる。古来から村長さんが他の村長さんと話し合ったりして決めてきたように。ただ、これが世襲制となったりしてはいけないって。うん、能力がない人が統治してはダメだからある程度リテラシーがある人たちによって選出される選挙制がいいね、と私も思う。
じゃあ、そのリテラシー、みんなの共通の利益を考える人、徳がある人、はどうやって輩出されるのか。ここで、その道しるべとして道徳があるよ。宗教だね。
日本の道徳は武士道のような感じ。こう生きましょうって。仁、信、愛、、、ってあるよね。これは、他国で言う、宗教と同じ。信仰心が自分に向けられているのか外(神)に向けられているかの内(自分)に向けられているのかの違いなだけで、内容はほぼ一緒だということに最近気づいたの。
人に優しく、とか、他人のものを盗らない、とか、当たり前の道徳がこの宗教の聖書とかコーランに書いてある。日本人は、それを神への信仰という形ではないけれど、道徳の時間で習ったり、親や社会で習ったり、国民性もあるのか、自分が人と違っておかしなことをするとそれは違うよって他の人の良い意味の圧力で直されるところがあるよね。例えば、聖書とか読んでなくても、人にされて嫌なことはしない、って、当たり前のこととして習ってる。でも、聖書とか経典には、そういう道徳的なことが書いてある。ただ、宗教(道徳)には2つのタイプがあって、純粋にそれを信じているタイプと、国によって定められたタイプがある。後者は、それを善として教えられているから、それを理由に暴力もできるし侵略もできるし、もはや宗教(道徳)の意味をなさないのでは、と思うけれど、国にとっては、それが都合がいいからそれを推進するよね。前者だけでもし構成される政府があったとしたら、それはもう愛で溢れて、平等で、何のトラブルもない平和な世界が実現するのだけれど、ルソーの言う通り、残念ながらその世界はもはや人間の世界ではないって。そうだよね、最初に言った通り、人間は自然状態では略奪や侵略やいじめをするのだから・・・。もっと道徳的にならないと、その規範は経典にあるんだけどね。法に縛られない法。自らを律するルール。
長くなってしまったけど、そういう感じで、政府と法は私たち市民の共通の利益を目的として、すなわち私たちが自由で権利を保有するために必要だよってことでした。